かたくにぎりしめた拳の力がぬけるように、梅の蕾の気がゆるみ一気に咲いた。どこからいつ合図があったのだろう? 毎日着る服を間違えている自分より梅のほうがよっぽどお利口だ。
こういう暖かい日は自転車で事務所へ行く。もちろんマスク。家を出てしばらくいくと環八にぶつかり横断するんだが、ちょうど信号が変わったばかりで、だいぶ待つことになった。大通りの信号は不公平だ。
ふと横を見ると、なんともダンディなおじいさんが一緒に待っている。70は過ぎてるが80にはまだ間があるくらいか。老人のオシャレは気持ちも暖かくなる。チェックのハンチングにブレザー、マフラーもチェックだが右左で色違い。顔にはしわがしっかり刻み込まれ、積み重ね焼かれた深い色。ややレイバン風のメガネも顔にあってる。
ん、知ってる顔だぞ。彼がこちらを見た時に、お互いがわかった。駅へ向かう道沿いにある有名幼稚園の守衛さんだ。歩いて通う時は毎日守衛姿を見かけているんだが、顔にいつもの固さがなく私服なのですぐにはわからなかった。
「こんちは、…ダンディですね」「いえいえ」
「あったかくなって良かったですね」「ほんとうにねぇ」
「冬の間なんだか心配してたんですよ」「いえいえ」 信号が変わった。
「失礼します」「失礼します」
彼の私服を見るのははじめてだった。雨の日も風の日も雪の日も、彼はひとりガードマン姿で、部外者を寄せ付けない固い顔で門の前に立っている。半袖が長袖になりコートになりさらに厳寒用のオーバーになっても…。外に立っているのは寒いに決まっている。とても寒い日に姿が見えないと気になって幼稚園の中をつい見てしまう。そんな日はきまって彼の相棒のバスの運転手が一緒に門番している。二人でいると彼もおひさまにあたる場所にちょっとは移動できるのだ。少しホッとする。
話をしたのは2回目だ。1回目は3年くらい前だろうか、幼稚園の前が空き地になって草がボウボウ生えていた夏の終わり。いつものように幼稚園の前を通り過ぎ、ふと右側の空き地を見ると、空き地の隅っこにカボチャが成っていた。10cmくらいに育っている。鳥のしわざかな。こういう思いかけない落とし物は本当に楽しい。その日からカボチャを見るのが日課になった。グングン大きくなるのが楽しい。だが、都会の空き地はいつか終わりがくる。ある日通りかかったら、きれいさっぱり草が刈ってあった。そしてあの、あとちょっとで食べられそうになってたカボチャもなくなっている。敷地内にほんのちょっとのっかてるくらい隅にあっただけなのに…
なんだか腹が立って、なぜそうしたかわからないが、彼に無言でつめよった。
「お、オレじゃないよう」あとずさりして弁解する。
彼じゃないことはわかってる。そして彼もカボチャの成長を見ていた事も知っていた。不動産屋が売りやすくするため、見栄えを気にして刈ったのだ。
「仕事だからしょうがないが、人としてどうかな」「ですね」
それ以来だった。もちろんオレも部外者なんで、ふだん厳格に門を守る彼に話をすることなんてできない。次に話をすることがあるだろうか。
自転車をこいでいるうちに、おめかしした親子の集団を何組も追い越した。
あぁそうか、今日は卒園式だったんだ。
右も左も梅が満開の中ペダルを強く踏んだ。