ここんとこの不況の波は我々デザイナーにも押し寄せてきているので、年賀状とかメールのお返事とかには、「今年はいつでも、なんでも、いくらでもをスローガンにやってますのでドシドシお仕事ください」なんて書いている。
マス広告やっていた若い頃は、媒体が大きくなればそれにこした事はない、という変な意識があったけど、今は全くそんな考えはない。むしろ小さいモノ、予算の少ないモノの方がやりがいを感じることが多かったりする。かえって担当者が一生懸命で、気持ちの通じ合う速度も早いのだ。なので本当に「いつでも、なんでも、いくらでも」。声をかけていただいたことに感謝し、仕事を断ったことはほとんどといってない。
でも…ほんとになんでもでいいのか。昨日恵比寿のアトレの本屋でその本を見た時に考えさせられた。例のリンゼイさん事件の犯人の手記本だ。まだ判決も出てない時になぜ出す? 刑期が終わったあと、あるいは数年後かそれ以上か、加害者が反省を刑務所の中で書いて出版されたモノなどとは明らかに違う。売れればなんでもいいとしか考えられない。編集担当者のいやらしさにムカムカする。それをPOP付きの平積みで売る書店も書店だ。装丁家の名前を見てまたショックを受けた。装丁の仕事をしたことがある人なら誰でも知っている憧れの人だ。もともとは斬新な演劇のチラシデザインで売れっ子になりいきなりフリーになった人。この人の初期のチラシはほとんど持っている。自分がチラシのデザインをはじめた頃から表も裏もためつすがめつ参考にした人。
やってほしくなかった。
オレにはこれを売ることを促進させるためのアイデアはやっぱり出せない。
昔、原発の仕事が来た時にどーしてもできないと言って断った先輩がいた。新聞の15段だったので常務は怒っていたが、「あいつの気持ちもわかるよ」とおとがめは特になく常務がやっていた。もっと昔、チェルノブイリ事故の何年か後のこと、イタリアのホールトマト缶のパッケージイラストを断ったイラストレーターがいた。万が一もない確率だったが、口に入るトマトを美味しそうに描けなかったのだ。
それよりももっと今回のは、たちが悪いと思う。
信じられないのだが加害者をカッコいいと思ったりする若者がけっこういるらしい。それは別にどーでもいいのだが、そのけっこうに便乗して売れるかもしれないと目論む出版社、その装丁のデザインをするデザイナーはどーでもよくない。
幸い今までやるやらないを悩むような仕事に出会ったことがないので、基本は「いつでも、なんでも、いくらでも」ドシドシなんですが、たとえ貧しくても心根は捨てないでおこう。