前に「芭蕉と小さいおうち」で書かかせていただいた大叔父の中村俊定先生の娘さん(T子さん)が亡くなられ、(娘さんといっても米寿の方ですが)お葬式に行ってきました。いつもニコニコしていてやさしい叔母さまでした。父親の従姉妹にあたります。なんどか家にふらっと遊びに行きました。応接間のある洋室付き日本家屋と猫。そして、おばあさまとT子さん。今思うとけっこう遠縁なのにずうずうしかったです。
芭蕉と小さいおうち─その1
↑ところで唐突ですが、
この時の任侠家系のお話の続編です。
父親のひいばあさんの妹か姉かが清水の次郎長の兄弟分の女房だったという人なんですが、最近『次郎長三国志』を読んで少しわかりました。
名前は、おきた。「形ノ原の斧八」親分の女房でした。でしたんですが、今回調べたら、このおきたさん、金のことになると親も亭主もない相当なドケチ。亭主が賭場で稼いだ金をせっせと隠して自分のへそくりにして知らん顔。ある時、次郎長の奥さんのお蝶さんが、一家と旅の道中に瀬戸で病気になってしまい動けなくなったんです。さすがの次郎長親分も旅先なので次第に薬代もなくなり、金策つきはて困っていました。それを知ったご先祖斧八親分は人肌ぬごうと思い立ち、おきたにへそくりの金を出してくれないかと頼みます。でもおきた、そんな人の女房のこたぁ知ったこっちゃない、と頑強に拒んで首を縦にふりません。結局、斧八はおきたから力づくで三両のへそくりをふんだくって…「畜生!泥棒〜!」と言う声を尻目に20里の距離を走り次郎長に届けた とか。それから兄弟分になったとか。美談ですが、血の繋がっている祖先はドがつくケチだそうで…はい。
という江戸、明治は置いておいて、昭和の市川家のお話。父親の兄弟が7人、祖父の兄弟も7〜8人(うろおぼえ、この中に中村俊定先生も入ります)いらっしゃるので親戚が多く、お正月や法事には「海岸」と呼んでいた祖父母が住んでいた家に集まったものでした。T子さんもよくいらしてた。どこかの富豪の別荘だったという明治の建物です。広い庭と蔵と離れ、父親の兄弟はみなこの家で育ちました。うちの父親が20年以上前ですが、亡くなった時にお通夜をやったのが最後。その後、市の移転計画で壊されて、今はアピタになっています。
今回T子さんの式で従姉妹や、また従姉妹に会い、ブログを見てくださっている話も出たので、取り壊される直前に「海岸」を撮った写真を、知ってる全ての人に贈ります。日差しが強い日にポジで撮ったので、画像が荒くすみません。
そうそう、上がると三畳のたたみが敷いてあった広い広い玄関の右横にあった下駄箱覚えてますか?今直してうちにあります。